「平和公園に眠る偉人達」のお墓めぐり、「ウォーキング同好会」

「ウォーキング同好会」のメンバーでもあり、「千種史跡がイド会」所属の水野清弘氏(17期)のガイドにより「平和公園
に眠る偉人達」のお墓めぐりを午前9時25分スタートで開催致しました。お天気は、今にも降りそうな状況でしたが、実
行に踏み切りました。おかげ様で途中多少の小雨状態もありましたが、殆ど降らずに午前11時20分頃に終わる事が出来ま
した。今回の参加者は、22名 (男性10名/女性12名)で、内、新入会者が3名(男性1名/女性2名)おられ、片山会長から紹介
がありました。
 平和公園は、昭和21年終戦直後から、当時の佐藤市長の提案により、名古屋市内の寺院279寺にあるお墓を15万坪の墓
地に集められて、今日にいたる膨大なる墓地地域となりました。整地その他移動により約10年間かかり、昭和32年に完成
致しましたが、その際、移動には大変ご苦労なされたように聞いております。
 この平和公園は、全国の平和公園での先駆けとなったとの事です。なお、公園には、多種の宗派が混在していますが、
水野氏のご説明によりますと、浄土宗と曹洞宗の墓地が多数占めているとの事でした。
 本日の巡る偉人のお墓は、18基あり、それぞれ全ての偉人墓を水野氏の解り易い解説で、それぞれの特徴を知る事が出
来ました。その中で特に印象に残った偉人墓を、私の個人的な偏見ではございますが、ご紹介致したいと思います。

☆ 徳川宗春(1696~1764) 尾張徳川家第7藩主、在位1730年から1739年の僅か9年で、吉宗公の緊縮政策の享保改革に反旗を
 翻し、蟄居謹慎処分で死去までの25年間が、外出も許されず蟄居生活が続きました。
☆ 片岡源吾右衛門(1667~1703)赤穂の叔父片岡六左衛門の養子となり、赤穂藩主の側用人として討ち入りした47士の一人。
☆ 松平仙千代(1595~1696)尾張徳川家第2代藩主徳川光友に仕え、弓頭を務め、三十三間堂の矢通しで2度も天下一となる。
☆ 伊藤圭介(1803~1901)幕末から明治にかけて活動した理学博士。長崎でシーボルトより本学草を学び、雄しべ、雌しべ、
 花粉等を命名した。
☆ お蝶 (?) 清水次郎長の妻。当時追われていた次郎長と共に名古屋に来ていたが、安政元年(1854年)に病死し、当寺に葬ら
 れた。
☆ 川村秀根(1723~1792)国史研究に没頭して、43歳から日本書紀集解を15巻まで書いて中断し、次男益根が完成させる。
  兄の秀頴は書物奉行、河村市長の先祖に当たる。

【写真】 本日参加の皆様              片山会長のご挨拶       水野氏による説明         

4月23日ウォーキング同好会による「平和公園に眠る偉人」のお墓めぐり

会員からのコメント

  1. 匿名 より:

     平和公園の墓碑にはビックリお目にかかれる方々が⁉︎と聞いており、訪ねたいものと(単独では難しいか?)鯱城他地区の参加も可能かなぁ~出かけたかっです。残念無念(泣)

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